第9回シアターX国際舞台芸術祭IDTF2010

2010年66日(日) 15:30〜 / 10日(木) 18:00〜


2009年12月7日
IDTF2010プレ・シンポジウム
(シアターΧ劇場舞台)

IDTFアートコンファレンス IDTF Art conference

テーマ『倫理』=エチカについて Theme “Ethics”

なにもかもが“世界同時”のいま─── きびしく きつい 情勢の下、このIDTFという国際フェスティバルで あらゆる境域をこえ 互が 議論し合うことこそ大事だと考えます。
 チェーホフの登場人物たちの吐く「生きていきましょう……生きていきましょうよ……」
───が、私たちに突きつけている 「エチカ」倫理について、その基調発言者の中村桂子さんが
コンファレンス当初、冒頭になさる発言骨子を文章化していただきました。

基調発言を読む


複雑さに耐え、新しく生き直す

中村桂子(生命科学者)


 生きるということは、「生きることそのもの」を問い、「人間とはなにか」を問うことでしょう。そしてこれは、問い続けることに意味があるのです。ところで、「かもめ」を始めとするチェーホフの戯曲が書かれたのは19世紀末、それに続く20世紀は「科学技術の世紀」として進められてきた百年でした。そのために、私たちはすべてが因果関係で説明でき、常に答があるものと考えるようになりました。答を出すことの意味が大きくなり、「問い続ける」ことの大切さが忘れられています。
 「エチカ」というテーマは私には重荷であり、『かもめ』についての理解も不足していることをお断りしたうえで、私にとっての「エチカ」は、「生きること」と「人間」について問い続けることであるという出発点から考えてみたいと思います。

 20世紀は科学技術の時代と申しました。それは、機械論的世界観に基づき、すべてを単純な因果関係に還元し、決定論で対処し、効率を求め、経済的成果を最大の価値とする社会をつくってきた時代でした。このような社会の問題点は多くの方、とくに芸術分野の方は実感していらっしゃると思いますので、ここでそれをあげることはしません。ただ、科学技術を支えたのは科学であるという認識で科学と科学技術を一括りにされている方が多いのではないかとの心配から、その辺りを少し説明し、科学の中で「人間」について考え、「生きること」について考え続けてきた者としての姿勢を語り、議論のきっかけにしていただきたいと思います。
 20世紀の科学を一言でまとめますと、「量子論と相対性理論で始まり、それが生命とはなにかという問いを生み、21世紀へとつながっている」と言えます。量子論というとなじみのない方もあるかと思いますが、マイケル・フレインの劇「コペンハーゲン」は御存知でしょう。ボーアとハイゼンベルグ、とくにハイゼンベルグは忘れてはならない人です。ここで物理学の話をするつもりはありません。ハイゼンベルグが示したのが「不確定性原理」であったことを申し上げたいのです。一方、相対性理論はアインシュタイン、それまでの科学が捨てていた「時間」が入っています。不確定性と時間、現代科学の描く世界観です。決定論であり、時間を切ることを求める科学技術とは違います。こうして今、科学の描く世界は考え続けるに足る興味深い対象として見えているのです。
 そのような世界の中に、私は具体的に「生きもの」 (もちろんこの中には人間も含まれます) を見ることで、この課題を考えています。どのようにして見るか、ほんの少しですがどのようなことが見えてきたかを、「生命誌」という仕事に添いながらお話します。
生きものは機械ではありません。製作者がいて作るものではありません。「自ずと生成するもの」、しかもそれは「自らを継続するもの」です。生成と継続。これが生命の基本です。この時、生成し継続するものは「形式」です。38億年ほど前、地球の海の中で生成した原始生命のもつ形式、生物学ではそれを「細胞」と名づけていますが、これは、そのまま私たち人間にまで続いています。38億年の歴史は、細胞内のゲノム(DNA)という形で記録されていることがわかってきました。数千万種という生きものたちのそれぞれが、38億年の記録を体内に持ちそれを読み解きながら生きています。くどいようですが、私たち人間も生きものの一つとして同じように生きているのです。ここで興味深いのは、それぞれの生きものはそこで生きているわけですからそれぞれが「完全」であり、しかも常に進化し続けているという点では「不完全」だということです。進化の方向は人間へ向っているわけではなく、従って人間が他の生きものに比べてより完全などということはありません。しかも一つ一つの生きものがこれからどこへ行くかは「予測不能」です。一つの形式を持ち、その中で時間を紡ぎながら続いていく、先の予測はできませんが、38億年変らず続いてきた形式はこれからも変らないでしょう。これこそまさに新しい世界観を考える切り口となるものではないでしょうか。
 生命誌 - 生命の歴史物語を読み解くことで、「生きること」について考えている具体例はコンファレンスの中でお話します。

ここで、『かもめ』に少し眼を向けてみます。最初のトレープレフによる舞台です。内容は御存知の通りですが、20世紀の科学を通して生きることを考えている者としては、この舞台は単なる劇中劇とは思えません。100年以上前にこのような視点を出したチェーホフが恐くさえなります。女優である母親に"デカダンじみているね"と言わせていることも含めて。「わたしの中には、人間の意識が動物の本能と溶け合っている。で、わたしは、何もかも、残らずみんな、覚えている。わたしは一つ一つの生活を、また新しく生き直している。」(神西清訳)これが、私の思う「エチカ」かもしれません。最後にこの劇中劇を思い起こすニーナが、「わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか栄光とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの。」と言います。ここでの忍耐は、人生の重荷や精神的な苦痛に耐え忍ぶということではないと思っています。前述した世界、不確定で予測可能で複雑な世界を生きるということは「複雑さに耐える」ことであり、その忍耐が大事だということなのではないかと思うのです。それに耐えなければ、世界のもつ豊かさを知ることはできないのですから。複雑な世界を構成するもの、とくにそこにいる生きものたちは、クモもヒトデも何かを表現し、語っています。それに眼を向け、耳を傾けて、そこになんと豊かなものがあるかを知ることが、とくに表現者である者にとっては大事なのではないかと思っています。

(なかむら・けいこ) 生命誌研究館館長。東京都出身。理学博士。東京大学理学部化学科卒。同大学院生物化学修了。
三菱化成生命科学研究所人間・自然研究部長、早稲田大学人間科学部教授、大阪大学連携大学院教授などを歴任。1993年−2002年3月までJT生命誌研究館副館長。

To tolerate this complication,
to live again

Keiko Nakamura(Biohistory researcher)


It seems to me that life is a question for “life itself” and “what a human being is,” and I think it meaningful to pursue the question further. Now, Chekhov’s plays, such as “The Seagull”, were written at the end of the 19th century. The following century―the 20th―could be called “the century of science on technology.” People have believed everything that occurred in the universe could be explained as a process of “cause and effect” and every mechanism could be analyzed. The more respected the seeking of results, the less the important the “pursuit of questions” has become.
To be honest, I don’t believe that I am up to this theme of ethics and my appreciation of “The Seagull” may be insufficient, though I choose to develop my opinions on the ground that the question of ethics is one of life and humanity itself.
I have called the 20th century “the century of technology on science.” It was an epoch based on a mechanical paradigm, in which everything was reduced to the simple process of cause and effect and disposed of by determinism; efficiency was admired and societies came to demand only economic success. As for such social problems, I suppose many people would be concerned about them, especially artistic people. I won’t address these now. I am concerned about the number of people who confuse science and technology, on account of the fact that technology is founded on science. Then as the introduction to our discussion, I would like to clear up a misunderstanding and speak on my ideas about humans and life as a scientist.
 As regards 20th-century science, in brief, it began with the quantum theory and the theory of relativity. They raised a question: “What is life?” This question was inherited by 21st-century science. As concerns the quantum theory, many might not be totally familiar with it. But the play “Copenhagen” is famous, Michael Frayn’s drama of two physicists, Bohr and Heisenberg. The work of Heisenberg is especially significant. I will not talk about the matter of physics now. I would say only that Heisenberg offered the uncertainty principle. In addition, Einstein created the theory of relativity. He introduced into his theory the concept of time, which had been disregarded in the field of science until then. “Uncertainness” and “time” feature in the paradigm of contemporary science. It is different from modern technology, which is based on determinism and tends to ignore time. Therefore, science still can create an interesting and formidable world.
I explore such a scientific world through observation of creatures―of course, including human beings. I will speak of how I observe creatures and what I have come to see through my work in “biohistory.”
A creature is not a machine. Nobody can make it. It creates itself, and moreover, it renews itself. Self-creation and renewal, both form foundation of life. What life creates and renews is “form.” Three billion eight hundred million years ago, in the seas of this planet the form of primeval life created itself. It is called a “cell” in biology. It has been transmitted to also us human beings. The memories for nearly four billion years are recorded in the style of the genome (DNA) in the cell. The number of species of creatures is in the tens of millions, and each of them has records for this span of time in the body and has decoded them in order to live. And also we human beings live the same way as every other creature. Now it interests me that every creature can be called a “perfect being,” because it actually lives well, and, at the same time, an “imperfect being,” because it is always evolving. Its evolution does not head in the direction of the human being. Then, it isn’t always true that humans are more perfect beings than other creatures. Besides, it is impossible to foresee what each creature will evolve into. But its form seems be permanent. Though no one can foresee the future, creatures would keep their “form” and weave their lifetime into the form like they have done for 3,800,000,000 years. I think such a perspective can be applied to an angle, in order to imagine a new paradigm.
I propose a concept: “Biohistory”―reading the history of life, or what I think “life” is.
Now allow me to mention “The Seagull”. I would refer to a part about Treplieff in the first act. As I think of life through the prism of 20th-century science, the particular part seems to me to be more than a mere play within a play. I stand even in awe of Chekhov’s vision of more than 100 years ago, including the line of Treplieff’s mother as an actress, “What decadent rubbish is this?” And I construct my ethic along these lines: “In me, the consciousness of man has joined hands with the instinct of the animal; I understand all, all, all, and each life lives again in me.”
In the last scene, Nina recalls the play within the play and says, ”It is not the honor and glory of which I have dreamt that is important for our work, it is the strength to tolerate.” Tolerance is not to endure a burden in life or mental pain, but to accept this uncertain, unforeseeable and complicated world, as I described it here. In other words, the tolerance of complication is important, because until we are intolerant of it, we can’t know the wonder of the world. Elements of the complicated world, especially creatures, even spiders or starfish, represent something and send messages. I think it is important for creative workers to watch and listen to such messages and know how wonderful they are.

(translated by Syo Iriichi, and supervised by Roger Pulvers)

基調発言者 中村桂子(生命科学・生命誌研究館館長)
主な発言者若松美黄(舞踊学 筑波大学名誉教授)
ユーリ・グロムイコ(ロシア科学アカデミー会員)
レオニード・アニシモフ(演出家)
ロジャー・パルバース(東京工業大学教授・同大学世界文明センター長)
ヤドヴィガ・ロドヴィッチ(ポーランド大使)
老象(北京・方家胡同46号劇場プロデューサー)
多和田葉子(作家)
鎌田東二(宗教学者・京都大学こころの未来研究所) 
沼野充義(東京大学教授・ロシア文学)
安達紀子(エッセイスト・ロシア語翻訳)
本多義敬(回向院住職)
中本信幸(神奈川大学名誉教授・演劇評論家)
村田真一(上智大学教授・ロシア文学)
里見実(教育社会学・国学院大学名誉教授)
A.カリャーギン(俳優)
A.プラウディン(演出家)
V.ニジェリスコイ(俳優、立教大学助教)
イ・ジェサン(俳優・演出家)
ポール・レイヤー(俳優・演出家)
上田美佐子(IDTF実行委員長)
司 会山本健翔(演出家)
(順不同・予定) 
公演日程

2010年6月6日(日) 15:30〜
2010年6月10日(木) 18:00〜

※開場は開演の30分前

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