シアターXの歩み

ひょんなわけあって、シアターΧカイという劇場は’90年代にうまれた。東京を分けてながれる隅田川(すみだがわ)左岸、オールドタウン両国の由緒ある回向院(えこういん)の元境内(初代・国技館あと)に聳えたつインテリジェントビルの一・二階部分を占めるこ洒落た小劇場で、百席以下にも三百席以上にも化けられる。
以下、シアターΧをめぐる、そして演劇をめぐる記事・エッセイを、年次ごとに振り返る。

1992年 シアターX開場を伝える新聞記事より抜粋”
謎のビックリ箱 “シアターX(カイ)

西日本新聞の掲載記事 1992年8月26日

 またひとつ、東京に劇場空間が生まれる。場所は両国。あの国技館とは駅をはさんで反対側にある回向院の隣にできた「両国シティコア」の一、二階部分。座席数300の小劇場ながら、プロデューサーの上田さんによると、自ら考える「劇場」として、人間をテーマに人やモノが行き交い、出会う開放された場をめざすとのこと。商業主義から解き放たれた自主企画と若いアーティストへ劇場を提供するという二本柱の運営のもと、何が飛び出してくるか、まさに“ビックリ箱”の期待がもてる。

 劇場のこけら落としで集中的に展開される「ヴィトカッツイのびっくり箱」。現代前衛劇の先駆者とされ、ヨーロッパでは評価の高いポーランドの劇作家。ヴィトカッツイ(1885年 ワルシャワ生まれ、1939年第二次大戦ぼっ発の年に自殺)だが、日本ではほとんど知られていない。
 「玉三郎さんの“ナスターシャ”はご覧になりましたか。アンジェイ・ワイダさんに演出をお願いしたんですが、あれは元々ワイダさんご自身の発想。その関係でポーランドに十数回足を運びましたが、そこでヴィトカッツイを知りました。絵描きで演劇も書けば小説も書く、写真も撮るという人。生前はほとんど認められることのなかった人ですが、自分の表現を追い求め、自ら意識的にカタストロフィの坂を落っこっていったような人。いま、そこまでのアーティストは見当たりません。消費価値のある物を志向する現代のサラリーマンアーティストとは全く無縁の存在です」。
 日本でヴィトカッツイをやるということで、ノルウェイのナショナルシアターのメンバーも参加する。
 「このお話しを持ちかけたとき、やっと日本でも、と感激されました。ノーギャラで来てくれることになりました。ポーランドからも若い役者さんがみえます。それでこの際、ヴィトカッツイの芝居、映像、写真、絵画とすべて紹介するものにしようと、びっくり箱仕立てにしたんです」。
 「ヴィトカッツイは全く完成しなかった人ですが、少なくとも今のようにスカスカの実力でお金とって芝居を見せる人たちが多い時代では、彼の世界は日本の文化になんらかの刺激を与えるのではと思います。この劇場自体そんな存在をめざそうとしています。毎月二十五日から月末までは、新人の作家、演出家、俳優、ミュージシャンなどにスペースを開放します。イキのいい若手がそこで育てば、と」。
 劇場自身が芸術家としてのマインドを持つという非常に挑戦的な試み。伝統文化のメッカ、東京の下町に新しい文化の芽が生まれるか、注目されるところである。

1992年10月24日〜31日
シアターΧオープニング特別企画
『秋への別れ』(ポーランド映画)
作:ヴィトカッツイ
監督:マリウス・トレリンスキ

1992年 シアターX開場を告げる新聞記事より抜粋
☆両国☆息づく芝居小屋の伝統 ─新しい劇場都市─

毎日新聞の掲載記事 1992年9月17日

 木の香りがする。木製の壁に包まれた赤紫色の空間。暗い天井にたくさんの照明器具が光る。すっと明かりが落ちた。銃声。「私はあなたを放しませんッ」。女が叫ぶ。舞台でもつれる男と女。
 墨田区両国に15日、「シアターΧ(カイ)」がオープンした。実験的な小劇場のこけら落としは「1920年代の前衛ホームドラマ」という「水鶏(くいな)」。日本ではほとんど知られていないポーランド作家の戯曲だ。
 「両国はかつて、芝居小屋がいくつもあった。本物でなければ認めない町。だから本物を見てもらうにはここでなければいけないんです」。プロデューサーの上田美佐子さんの言葉に力が入る。
 両国は江戸の娯楽街だった。両国広小路には芝居や見せ物の小屋が立ち並んだ。講釈師、軽業師、女義太夫など諸芸の名人が集まり、大川(隅田川)を渡って人々が押し寄せた。
 「大震災までは芝居小屋があった。国技館じゃ菊人形もやったし、面白かったねえ」。両国に住み続けている金谷きみさん(80)の記憶にも両国のにぎわいは刻み付けられている。
 かつての劇場空間の磁場に引かれたのか、両国や深川の大川端に風変わりなスペースが次々に生まれている。レストラン、カフェー、画廊など江戸文化の香りに最新のファッション、斬新な動きを溶け込ませた不思議な感覚の空間が多い。「懐古趣味ではない。両国には芸能を育てる下地がある」とニュースペースの仕掛け人たちはいう。
 地元の人たちはまだ「変なことをやってるな」という程度の受け止め方だが、「渋谷のように人が集まればいいのではない。芸事は下町が本場。本物を見せれば地元の人も必ず分かってくれる」と上田さんは自信を持っている。伝統から新しい劇場都市のエネルギーが噴き出している。
 シアターΧの庭に土俵を模した円が描かれている。「演劇は格闘技と同じ。力士に『劇場を見習え』と一目置かれる程の場所にしたい」。芸にかける意地がほの見えた。

1992年11月23日〜25日
シアターΧオープニング特別企画
『彼女はかつて、彼女は今、さえも』
脚本・演出:ヤン・ファーブル
出演:エルス・デセウケリェル

1992年 シアターXオープニング企画を伝える新聞記事より抜粋
スターや宣伝と無縁 若手の育成に熱心
ぶらり劇場街─両国再開発で誕生

朝日新聞夕刊の掲載記事 1992年10月12日

 東京・両国駅前に、今年9月新しい劇場「シアターΧ(カイ)がオープンした。両国と言えば、相撲。国技館があり、周辺には相撲部屋も多い。劇場へ行く途中、トランクをさげた力士を見かけ、それらしい気分になる。都心からわずかな距離だが、隅田川を隔て、両国にはビジネス街とはちがった時間が流れているような気がする。
 回向院の境内に接して、真新しいビルで囲まれた一角がある。シアターΧのある再開発施設「両国シティコア」だ。旧日大講堂跡地を東京都の土地信託事業として再開発した。信託銀行三行が共同受託し、オフィス棟、住宅棟、スポーツ棟の3つのビルを建てた。劇場はオフィス棟の一階にある。最初はイベントホールとして計画されたが、若者が集まることを期待し、劇場に変えたという。客席数三百のこぢんまりとした劇場だ。
 オープニングの特別企画に、ポーランド生まれの現代前衛劇の先駆者ヴィトカッツイ(1885〜1939)を取り上げた。日本、ポーランド、ノルウェーの四劇団が、ヴィトカッツイの作品を連続上演している。
 3日から11日まで、ポーランドのベテラン俳優ヤン・ペシェクと若手俳優4人が「狂人と尼僧」を演じた。日本語字幕もイヤホンガイドもなかったが、訓練された演技によって、戯曲の世界を確かに観客に伝えていた。
 同劇場の上田美佐子プロデューサーは「スターを呼んだり、お金をかけて宣伝することとは無縁な劇場。私たちが本当に伝えたいもの、志あるものだけをやっていきたい」と話す。
 若手の育成にも熱心で、毎月最終週は、プロを志す若手アーチストに劇場を開放する。「企画案を持って、どうぞ劇場へ」と呼び掛けている。今月13日から23日までは、ヤン・ペシェク氏による公開の「演劇授業」が行われる(無料)。
 都内の劇場は、都心と西部地区に偏っている。東部地区の数少ない劇場として地元の期待も大きい。

1992年11月6日〜3日
シアターΧオープニング特別企画『水鶏』
作:ヴィトカッツイ
演出:ピョートル・ホージンスキ(ノルウェー)
出演:ノルウェー国立劇場メンバー

1992年 シアターX情報誌より抜粋 シアターXオープニングに寄せて
ヘンリク・リプシッツさんに聞く
ポーランド駐日大使(1992年当時)

シアターΧ情報誌ニューズレター創刊5号 1992年5月15日

戦うべき敵を見失った演劇にしのびよるあらたな敵

 
 1972年、私は研究留学生として早稲田の文学部に10ヵ月ほど通ったのですが、当時は学生運動が盛んなころで、授業はほとんどありませんでしたから、大学に行くかわりに、今日は歌舞伎座、明日は赤テントと、多くのさまざまな芝居を観てまわりました。そして、それが意味するものが何であれ、初めて「本物の芝居」を観たいという感慨を覚えたものです。
 しかし、そのために、ポーランドに帰国して後、かなりの間、私はポーランドの「普通の芝居」を楽しむことができなくなってしまいました。芝居好きを自認する私をもってしても、普通の芝居は、そのあまりの退屈さに当惑してしまうほどのものだったからです。
 しかもそれは、私たちが「マーワ・スタビリザーツィア(わがつまらない安定化)」と呼んでいる時代のことだったからなおさらです。ポーランドの芝居は当時、自由を獲得するために突き進んできたそれまでのパワーを失ってしまっていたのです。ゴムウカに代わるギエレク政権が消費生活の充足に力を入れた結果、自分の家を持ち、小型のフィアットを持ち、というふうに、個人の生活は豊かになった反面、芸術はつまらなくなってしまっていたのです。
 そしていま、ポーランドの演劇は、商業的な方向に向かっているように思われます。少なくとも、社会の動きと国民の思想とに密接な関係があったかつての傾向が形骸化していく恐れがないとはいいきれません。

1995年 ポーランド政府よりプロデューサーの叙勲を伝える新聞記事より抜粋
顔 ポーランド銀功労勲章、文化功労勲章を受けた上田美佐子さん

読売新聞の掲載記事 1995年5月9日

 「ノーベル賞作家にならえば『義理と人情の日本の私』です。実践かつ戦闘的、親しみある下品さこそ私の特長。何しろアバンギャルドの義理人情でございますから」
 先月、自分がプロデューサーを務める東京・両国の小劇場「シアターΧ(カイ)」で行われた授賞式あいさつで笑わせた。演劇集団・円公演「母」(作=ヴィトカッツイ)の初日。幕が下りた舞台に駐日ポーランド大使が突然登場するというハプニング的授賞式だった。
 大使館で二月に行う予定を「ポーランド劇公演に合わせて劇場で」と頼み込んで実現。行動派、現実主義のこの人らしい。
 舞台芸術交流の功績での受章。個人で奔走し、アンジェイ・ワイダ監督の演出、坂東玉三郎主演による「ナスターシャ」の上演(一九八九年)を実現させた。さらに劇場プロデューサーになってからはヴィトカッツイや“ポーランドのカフカ”ブルーノ・シュルツの前衛劇上演、同国俳優を招いた企画なども。
 ポーランドとの出会いは9年前。「つてなしにワイダ監督を訪問。無謀ですよね」と笑う。上演までに3年間と10回の渡航を要した苦労が、逆に多くの芸術家と知り合う機会を生んだ。
 「豊かな芸術性と、それを支えるシステムに感服した」
 そんな行動力と企画力を請われて劇場プロデューサーに就任。実験的作品の上演や若手への無償開放などを通じて「自由な芸術的精神の種をまき、育てたい」と小さな劇場の大きな志を着々と根付かせている。
 「ポーランドから学ぶことばかりなのに勲章なんて。義理と人情で借りを返し続けたい」
(芸能部 中村義成)

1992年10月3日〜11日
シアターΧオープニング特別企画
『狂人と尼僧』 作:ヴィトカッツイ
演出・主演:ヤン・ペシェク
出演:スターリ劇場メンバー
(ポーランド・クラクフ)

1997年シアターX5周年記念公演『女王イヴォナ』のプログラムより抜粋
シアターΧが企画した作品群のこと 七字英輔(演劇批評)

『王女イヴォナ』
作:ゴンブロヴィッチ 演出:ヤン・ペシェク
(1997年10月24日〜11月3日)

 シアターΧについて書くとなると、総合プロデューサーの上田美佐子さんについて触れないわけにはいかない。私が上田さんのお名前を知ったのはもっと前だと記憶するが、やはり印象に強烈なのは、坂東玉三郎を口説き落としてポーランドへ飛び、ポーランド映画界の巨匠であり、演出家のアンジェイ・ワイダの懇意を得て、ワイダ演出『ナスターシャ』の日本公演を実現させたことだ。これは、ドストエフスキーの『白痴』を、ラゴージンとムイシュキンの大詰の対決場面から再構成したもので、玉三郎はムイシュキンと、回想の中に登場するナスターシャの二役を演じたことで話題になった。私が記憶するところによれば、80年の訪日の折、京都南座で玉三郎演ずる『椿姫』をワイダが観て、当時、彼が母国で演出したばかりの『ナスターシャ』(言うまでもなく、この時の演出は、ムイシュキン、ナスターシャが一人二役ではなかったわけだが)の新演出についてアイデアを得たのを、上田さんが聞きつけてのことだった。

その決断の早さと行動力は、私が昨年、モルドヴァからウジェーヌ・イヨネスコ劇場を招聘して『ゴドーを待ちながら』を上演するに当たって、手本とさせていただいたものだが、印象深かったのは、そうしたエピソードのためばかりではない。実際に上演された舞台が素晴らしかったせいだ。ベニサン・ピットの箱型の空間を燈火ゆらめくサロン風室内に見立てたワイダ夫人のクリスチーナ・ザスワトヴィッチさんの美術が素敵で、観客席は、舞台の両側にわずかに数列ずつという実に贅沢なものだった。今でこそこうした、劇場空間をまるごと演劇空間に変容させてしまう趣向は珍しくなくなったが、当時は極めて斬新であり、白いショールに頭からすっぽりくるまってしまうと、ムイシュキンからナスターシャへと瞬時のうちに変身する玉三郎の演技もまた、実に蠱惑的だった。

 上田さんがシアターΧの総合プロデューサーに着任されてからの仕事も、いわばこの『ナスターシャ』の延長上にあるように思われてならない。それは何も、上田さんがポーランドとの架け橋となってポーランド文化の紹介につとめたり、演劇交流を進めたり、といった側面ばかりを指して言うのではない。現代演劇のスリリングな実験性と、玉三郎に代表される日本の古典演劇のもつ、伝統性の、ふたつながらをどう融合させるのかに意識的であるように思うからだ。郡司歌舞伎や日本の近代戯曲の発掘、つか演劇の連続的な展開といった企画にみられる、日本演劇の「大衆性」の見直しといった作業もさることながら、5周年記念プロデュース作品、ゴンブロヴィッチ作、ヤン・ペシェク演出の『王女イヴォナ』の役者たちに、郡司方式の「歩く」を訓練させるといったことも、それは現れている。

 しかし、そうしたことを認めたうえでなお、92年開場以来、毎年のように行われている、きわめて特色のある独自の企画物には瞠目せざるを得ない。オープニングを飾った「ヴィトカッツイのびっくり箱」におけるヴィトキェヴィッチ作品特集、93年のハイナー・ミュラー作品『四重奏』の三ヵ国四グループ競演「四つの『四重奏』」公演、94年の異端のアメリカ人作家ポール・ボウルズの劇化と、ポーランド人俳優ヤン・ペシェクを招いてのブルーノ・シュルツの紹介といった、「狂気」を主題とした連続公演へと続く企画。94、5年には渡辺守章演出でマルグリット・デュラス『アガタ』と、ジャン・ジュネ『女中たち』が連続したし、今年の春には、ドイツの不条理劇作家タンクルート・ドルストの新作『パウル氏』を、ドイツ人演出家ヨッシ・ヴィーラーを招いて演劇集団 円とドイツ文化センターと共催上演している。そしてこの流れから、二年がかりで準備を進めてきた『王女イヴォナ』が生まれる。

 ヴィトキェヴィッチ、ブルーノ・シュルツ、ゴンブロヴィッチというポーランドの「三大前衛劇作家」のみならず、ミュラー、ポール・ボウルズ、デュラス、ジュネ、ドルストと並ぶ布陣は、壮観である(提携公演であるが、べケット自身の演出版という、ピエール・シャペール出演の『クラップ最後のテープ』もあった。)これに、安部公房の小説をオムニバス型式で舞台化した『サクラのサクラ原体験』まで加えると、シアターΧが目指してきたものの一端が自ずと明らかになるような気がするのは、私だけではあるまい。二十世紀文学、演劇の最前衛に位置する作家、劇作家の作品ばかりを好んで取り上げてきているのだ。これらは皆、宴意性、象徴性の色濃い不条理劇だといって差し支えないだろう。

 いや、作家のみに限ったことではない。観客を60人に限定して上演されたベルギーのヤン・ファーブル作、演出『彼女はかつて、彼女は今、さえも』(92年。断るまでもなく、デュシャンのあの、通称『大ガラス』を下敷きにしている)や、ボグスワフ・シャフェル作、ヤン・ペシェク演出の『存在しないが存在可能な楽器俳優のためのシナリオ』(96年)など、前衛美術、前衛音楽をモチーフにしているといってもよい、テクストと身体演技とが舞台の上で拮抗しあうといった体の実験色の強い舞台だった。(ちなみに、これらに前述のべケット『クラップ最後のテープ』を入れれば、私の海外版一人芝居のベストスリーが出来上がる)。

 なかでもヤン・ペシェクとこの劇場との開場以来の親交の深さは、劇場に独特の色を添えるのに成功してきたといっていいだろう。90年にワイダ演出の『ハムレットIV』の墓堀り役で初来日して注目されたペシェクの俳優としての稀有な才能は誰しも認めるところだが、演出家としても、ヴィトキェヴィッチ作『狂人と尼僧』(92年)やブルーノ・シュルツ原作『砂時計のサナトリウム』で異才を放った。いずれも「狂気」にとらわれた男の話で、前者は、精神病院に収容された詩人が、幸福になるためと言われて拘禁服を着せられて治療をうけるというものであり、後者は、逆に父親が入院しているサナトリウムを訪れた息子が過去のさまざまな場面に遭遇するというもの。どちらも退嬰的で、死とエロティシズムに彩られた舞台だったのが忘れられない。これらは、ペシェクを含むポーランドの俳優によるアンサンブルであるが、今度の『王女イヴォナ』では日本の俳優を用いる。どんな成果が生まれるのかが期待される。

 いずれにしろ、商業ベースを排し、知的に洗練された舞台を持続的に見せてくれる劇場は、日本にはこのシアターΧをおいてない。私にとっては、演劇のみならず日欧の文化全般にわたって刺激を与えつづけている源泉であり、常に憧憬の対象ともなってきた劇場だ。これまでのところ、ポーランド文化が先行しがちだが、これまであまり紹介されてこなかった他の東・中欧圏にも、水準の高い演劇が数多くある。そうした国々の演劇にも触れられるようになれば、これに勝る喜びはないのだが……。
(七字英輔:演劇批評)

1997年10月24日〜11月3日
シアターΧ5周年記念『王女イヴォナ』
作:ゴンブロヴィッチ
演出:ヤン・ペシェク

ヤン・ペシェク(ポーランド)

1998年 湯浅美子賞受賞を伝える新聞の掲載記事より抜粋
芸術運動の拠点「劇場」を守る 足腰の強い文化よ育て!

女性ニュースの掲載記事 1998年4月20日
「王女イヴォナ」(1997年10月24日〜11月3日)の上演を終えて

 翻訳劇の優れた上演に与えられる湯浅芳子賞(第5回)を受賞した両国のシアターΧ(カイ)。その代表としてプロデュース一切を仕切っているのがこの人。シアターΧプロデューサー:上田美佐子。

 受賞の対象となったのはポーランドのゴンブロヴィッチ作の「王女イヴォナ」(昨年秋上演)。ポーランドの人でさえ特異、難しいというゴンブロヴィッチの世界を、ポーランドからヤン・ペシェク(俳優、演出家)を連れてきて、日本の若手俳優のオーディションから始まり、一年がかりで準備、稽古し公演を成功させた。
 ポーランドとのかかわりは、フリーのプロデューサー時代、三年がかりでポーランドに通いつめて、アンジェイ・ワイダの演出、坂東玉三郎の主演で「ナスターシャ」の上演を実現(89年)させてから。95年にはポーランド銀功労賞、文化功労賞を得ている。
 舞台芸術学院で演出を学んだが、長い間雑誌の編集をやっていた。「音楽の友」の取材で、つかこうへいと知り合い、手伝っているうち「なんとなく、つか事務所の代表に…」。

 86年の一月、朝日新聞でアンジェイ・ワイダ監督のインタビュー記事が出ていた。玉三郎でドストエフスキーの「白痴」をやりたい、と語っていた。「これだ」と思った。矢も楯もたまらない。ポーランドに飛んだ。東欧はまだ社会主義体制のときだ。友人たちはみな、無駄だ、反体制のワイダは軟禁されて…いるといった。ともかくホテルからワイダの家に電話してみると、今芝居の稽古中だという。芝居ができるくらいなら、と少し安堵した。すぐワイダがホテルに行くという。半信半疑で待っていると、本当にワイダがホテルにやってきた。「凄いスピードでBMWの乗用車が横付けになったと思ったら、中からワイダがヒラリと下りて…」。この日から三年ポーランドに通い詰め、ついに「ナスターシャ」の上演に成功。玉三郎はムイシュキンとナスターシャの二役を演じ、大変な評判。
 「ポーランドは貧しい国ですが、国民全体が芸術にかかわって、足腰の強い文化を持っていることを痛感しました」。

 92年、両国に下町随一のノッポビル誕生、その中に「シアターΧ」オープン、マネージャーとなる。
 「もともとここは昔の国技館。占領軍に接収され、日大講堂になり…。再開発計画がバブルのときで、こんな大きなビルになり、客席300の劇場が出来、私のところに話しがきた。私がやりたいものをやっていいなら、といったらそれでよいと。オーナーはどうせこんな下町の場末、何をやっても人が来ない。好きなようにやらせておけ、と思ったらしいの。ハハハ」。
 「何をしてもいい。もうけろ、とも言わない、だけど金は出してくれない。自分でやって欲しい、ですから大変なの。5千円の入場料をとり、満席になっても収入150万円でしょう? やれるわけがありません。文化庁の助成金もらったり、スポンサーをとりにかけまわったり。まあ皆さんのご協力でなんとか。企業も景気のいいときはメセナとかなんとか格好いいこといってますが、不況になると…。日本の文化の足腰は弱いですよ」。
 翻訳物が賞をとったわけだが、「シアターΧのだしものは日本の物のほうが多いですよ。日本の近代劇の秀作一幕物を発掘して上演している〈名作劇場〉。有名な作家の作品でも上演されたこともなく誰も知らない作品があったりして。これも13本上演しましたが、百本上演すると宣言していますから、あと何年かかるかしら。シアターΧの灯を消すわけにいきませんね」。
 「今、皆、芸術という言葉を使いたがりません。でも、私は芸術を作りたい。劇場ビジネスなら命をかけてやる必要はありません。芸術運動の拠点が劇場です。劇場は芸術家を作っていくものだし、劇場は劇場として生まれるのではなく芸術家によって劇場に育って行く、と思っています」。

第1回シアターΧ名作劇場
1994年1月3日〜6日
小山内薫『息子』
(撮影:中川忠満)

第3回名作劇場
1996年3月19日〜23日
久米正雄『地蔵教由來』
(撮影:中川忠満)

1998年 劇場開場以来、シアターXに関わった編集者の目
シアターΧの激しさ
─6年間ファイルを編集しての後記(港の人 里舘勇治)

シアターΧ1997ファイル 1998年3月31日

 最近、平塚らいてうの「元始 女性は太陽だった」の宣言文をよむ機会があり、その末尾のことばにたいへん感動した。
烈しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である。
 このちからつよく、ぐいっぐいっと胸元をつかみ引っ張り上げてくれることばに、まったくその通りだと共感した。
 烈しく欲求することが〈事実〉を創ってゆく源泉だと思う。なにを〈烈しく欲求する〉のか。それは生きることを問い、わたし〈たち〉のあしもとにひろがる闇を掘りさげつづけてゆく行為、をである。なににぶちあたるか、さっぱり定かではないが、ときには暴風が吹き荒れ、ときにはおろおろし、空が澄んで見えたりすることもある。
 シアターΧの試みは、この欲求の激しさを、わたし(たち)の喉元に突きつけているのではないかと、勝手に解釈している。ヴィトカッツイ、シュルツ、ゴンブロヴィッチ、ヤン・ペシェク、つかこうへい、大野一雄、郡司正勝……。この芸術家たちの欲求の激しさが作品という事実を誕生させ、芸術の名に値する世界をわたしたちに感動とともにひらかせてくれる。
 大芸術家たちの作品ばかりではない。若手の欲求にも等価に対応し、作品において勝負させている。またワークショップという、無償の行為ともいえる、修練の場を設け、時代の流れとは逆行するひとつの長い時間をかけ、新たな作品を創造する。
 これがシアターΧの二重にも三重にも欲求の深さ、激しさの現れだと思う。なにをもオミットしない。だが、峻別はきびしい。わたしたちの「足腰の弱い」文化状況の中で、シアターΧの「芸術家が劇場を劇場に育てる」という信念が後に退けないからかもしれないが、この激しいさはシアターΧの〈真原因〉であると思う。
 郡司正勝氏は、「演劇は、現代において、もっとも危険性を孕んだものであるということの認識だけは忘れてはならぬ」と述べた。ほんとうにそう思う。忘れてはいけない。

1997年10月24日〜11月3日
シアターΧ5周年記念プロデュース公演
『王女イヴォナ』
作:ゴンブロヴィッチ
演出:ヤン・ペシェク
(撮影:宮内勝)

1998年 6年目の新たな試みを伝える新聞記事より抜粋
志は大きくチャレンジ精神で
「安楽生」拒み 海外交流も
小劇場「シアターΧ」プロデューサー上田美佐子さん

毎日新聞掲載の記事 1998年7月4日

東京の両国といえば大相撲の国技館や花火大会を思い浮かべるが、かつては100近い芝居小屋が集まる演劇のメッカだった。この地でポーランドとの舞台芸術交流や独特の俳優修業など存在感ある活動を続けているのが小劇場「シアターΧ(カイ)」だ。「劇場は劇場として生まれるものではなく、劇場に育っていく」が信念の同劇場プロデューサー、上田美佐子さんはこの夏、インターナショナル・ダンスフェスティバルを仕掛け、ダンスの新たな方向性を示す。 (紀平重成)

 シアターΧは客席数300の文字通りの小劇場。しかし「小さな劇場の大きな志」と上田さんが言うように1992年のオープン以来の活動ぶりは、チャレンジ精神あふれるものだ。
 開幕公演はポーランドのヴィトカッツイの前衛劇。以後もブルーノ・シュルツ、ゴンブロヴィッチとポーランド前衛作家の作品にこだわり続ける。それは、人生で楽な流れに乗ることを生涯、拒みつづけたヴィトカッツイの生き方に、上田さんが共鳴したからだ。実力はあってもマイナーな存在。そこに自らのイメージをダブらせた小劇場ならではの自負が読み取れる。
 資金が足りないところは企画力と体力で。終電車の発車時間をいつも気にするような働き方。それをスタッフにも強要する。数が万能ではないが、年間の観客動員数も7万人を超えるまでになった。「下町のこんな小さな劇場には見る人も演ずる人も集まらないだろうが、だからこそクオリティーの高い劇場文化を根付かせて地元に貢献したい」というオーナーの願いは、当初の予想が外れるいい形で少しずつ実現している。
 上田さんの行動力には定評がある。86年、つてなしでポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の元に押し掛けた。それは同監督演出、坂東玉三郎主演の「ナスターシャ」上演に結実するが、その間の3年、10回の渡航という苦労が、結果的に多くの芸術家と知り合えるチャンスに変わった。
 「もともとはサイエンス志向で演劇は好きではなかった。見ていて恥ずかしいもの、後ろ指さされ組と思ってました。ところがポーランドの芝居は言葉が分からなくても感動します。手間ひまがかかっていて、魅力ある演劇を生むシステムが出来上がっています」
 上田さんを演劇にのめり込ませたポーランドとの舞台芸術交流は、うれしいことに97年同国銀功労勲章、文化功労勲章受章の栄誉につながった。さらにことしはシアターΧがすぐれた翻訳劇を手掛けた団体として湯浅芳子賞にも輝いた。
 しかし上田さんは、テレビの視聴率競争が舞台に持ち込まれているような現状に満足していない。
 なぜ演ずるのかを考えようとせずテクニックに走る演技者。それを許すプロデューサーや観客。楽な方へと向かう「安楽生」の風潮が気になる。
 「だって芸術とは現状への危機感からスタートするものでしょう」
 その思いをまずダンスの分野で試みる。8月3日から23日までシアターΧで開くダンスフェスティバルは作曲家の三宅榛名さんや建築家の林昭男さん、生命科学研究者の中村桂子さんら8人の発想を核に、舞踊家が協力する公演とワークショップ、シンポジウム。
 4月に亡くなった早稲田大学名誉教授の郡司正勝さんは病気を理由に一度は断った今回の台本を病床で考え、「ドリアン・グレイ、最後の肖像」として上田さんに伝えた。郡司さん最後の作品は舞踏家の大野慶人さんが踊る予定だ。

1998年8月14日〜16日
シアターΧ第3回インターナショナル・ダンスフェスティバル98
『ドリアン・グレイの最後の肖像』
出演:大野慶人 構想:郡司正勝
(撮影:宮内勝)

1999年 シアターX情報誌より抜粋 日本で演劇を志すということ
さまざまな罠… 多和田葉子(作家・ベルリン在住)

シアターΧ情報誌ニューズレター30号 1999年1月1日

 日本の若い男の子は一見、無口で柔らかい感じがするが、突然、刃物のような言葉を突き出すことがある。昔、わたしが学生だった頃も、そういうことが時々あった。文学や旅の話など男の子にすると、ずっと黙っているので、耳を傾けているのだろうと思っていると、一時間くらいしてから突然、「そんなこと面白がっているようじゃあ、まだ大したことないな」とか「そんな甘い考えで外国にいけると思っているわけ?」などと言うのである。それで、こちらは裏切られた気になる。そう思っているなら早く何か言えばいいのに、ずっと黙っていて、急に傷つけるだけで内容のない言葉を口にするのはひどすぎる。でもこれは、エネルギーと教養を持て余した母親の口から自分を守るために彼らが磨いた自己防衛の技なのかもしれない。突然の暴力と言えば、言葉ではなく身体の暴力が問題になり始めたのも、もう随分前のことだ。おとなしかった子供が突然、家族に暴力を振るう。家族というのは、すごく良いものだと考えられているので、それを傷つけるのは特に悪いことだということになる。でも、家族は本当に良いものなのか。たとえば、家族は助け合うもの、とよく言うが、別にそういう美しい美徳が自然と存在するわけではなく、国が保障できないから家族に助けてもらえ、というだけのことになってしまう。そのくらいなら、家族は絶対に助け合ってはいけないという法律を作った方がずっと自殺者が減るのではないか。また、「そんなことしてたら、自分はいいかもしれないけれど家族が可哀そうだから」というブレーキのかけ方がある。「そんなこと」の中には、変な芝居にうつつを抜かすとか、社会を真っ向から批判するとか、そういうことも入っている。これは家族という弱みを持たせてラディカルなことをやめさせる罠なのかもしれないが、実際にはだからと言って家族がすぐに飢え死にするケースは少なく、むしろ「家族のために」が単なる言い訳として横行しているような気もする。

2004年9月21日
アントン・チェーホフ没後100年フェスティバル
多和田葉子+高瀬アキ
『ピアノのかもめ 声のかもめ』
(左より多和田葉子、高瀬アキ)
(撮影:コスガデスガ)

1999年 シアターX情報誌より抜粋 パリから見える演劇状況
「動かされるものが無い」
佐藤京子(演劇ジャーナリスト・パリ在住)

ニューズレター30号 1999年1月1日

 「芝居がつまらない」と感じ始めてからもう随分たつ。あまりつまらないと繰り返していても良くないと重い腰を上げて劇場に行っても、大体でくわすのは「別に悪くはないけれど…」と言うものばかり。このつまらないというのは高揚しないと言うことで、この高揚の欠如は恐らく作る側にも見る側にも原因があるのだと思う。私自身が見る人間としてかつての新鮮さを失っていること、余程のものでない限り感動できなくなっていること、そうした不感症も確かにある。それにしても多くの演劇がどんなに巧く作られていてもそこに作っている人間の必然性が感じられないというのはどうしてだろう。かつて私にあれほど高揚を与えてくれたダデウシュ・カントールやピーター・ブルックや太陽劇団のアリアーヌ・ムイシュキンの演劇はどこに行ってしまったのか。作る側に言いたいことが無くなってきているのか、求めるものがなくなったのか。何を求めて良いのか分からなくなっているのか。一言で言えばこのエネルギー、信念の無さは一体どこから来るのか。かつて演劇はもっと何かを覆してしまうような力を持っていた。それは価値観を覆されるような衝撃だったり、自分自身の生き方を問われるような存在を根本から揺り動かすものを持っていたと思う。

 今日の世界が何も言うことがないほど問題のない時代だとは思えない。恐らく皆怒りや世の中どこか間違っていると思っても以前ほど敵の姿が明確に見えず、問題の震源はもっと複雑になっていて、何に対して誰に対して抗議をしたらいいのか分からなくなっているのかもしれない。あるいは政治的幻滅から人間がシニカルになりすぎてしまったのか。要因は色々あるにしても、多くは一度確立した場所に収まってしまったり、常に何かを求めて続けている者も新しい問題提起のあり方、演劇の新しいフォルムを模索している過渡期なのかもしれない。

人形劇21世紀会議2002 全体会・公演(……のための前口上)より
「危機」認識できる免疫力の増強を
劇場という創造現場からの提言

シアターX(カイ)劇場プロデューサー:上田美佐子

 人形劇も演劇もダンスも演奏も……と、結果いろいろ多種多様なことをやってきたシアターΧ(カイ)と称する私どもの劇場も、本年9月で10周年を迎えます。
 そこで収斂できる今の思いは、今日の日本における文化芸術創造活動の内実の貧困さ、それに対する危機感です。かつ、この状況に危機意識を抱いていないらしい現状への、さらなる危機感です。
 実は世界的にも、現在の文化状況に対しての危機的状況は共通してあります。それについて最近、ドイツ・フランス・ロシア・中国等を取材したことなど、ぜひとも報告いたしたいのですが、まずは日本のそれから始めたい。

(1)銀座セゾン劇場が昨年、東京グローブ座と大阪の扇町ミュージアム等が今年、劇場閉鎖ということになった。「文化でメシが食えるか」という会社の重役会議での発言に一言の反論もなく事が決まったとか…スポンサー企業が不況ゆえ協賛金なしにはやっていけないとか……の理由だとのうわさである。
 ここで問題なのは「閉鎖する」権利も、責任をも、文化芸術の創造主体側が持っていないということだ。
 「儲かるか、損するか、の論理で動く主体」まかせの文化芸術ってナニ? それが“普通”常識となってしまって、運の悪さを嘆くだけの現状の奇ッ怪さ。ヨーロッパの場合は「劇場」側が閉開の権利行使をしている。もっとも、彼らの場合は劇場イクオール劇団でもあろうが。
 口はばったいようですが、シアターΧが10年を経て確信してきましたことは、「私どものやろうとする劇場は、芸術創造の現場でありつづけよう」ということ。流通や消費する芸術製品の催事場なのではない、と。

(2)だがしかし、目下、日本の状況は総じて“製品”志向で、スピーディな仕上げ・回転・消耗…や、低コストや、販売増大のみがめざされている。劇団四季や流通企業や興行会社等の、プロダクツ哲学で動いていらっしゃる場合は、理の当然、この利潤追求による製造システムで生産が行われるのでもありましょうが、国や地方のわれわれの税金で保証されている劇場の場合でも、安楽お手軽“製品”化の風潮が助長されているのはどういうことでしょう?
 罪は芸術創造主体の側にある。もしもメシが食えないで飢えるとしても、選ぶべき道を選んだ創造自由の代償ならば、霞を食べればいい。

(3)昨年、驚かされたものはフランスの太陽劇団日本公演『堤防の上の鼓手』であった。「洪水」という自然による大災害と対決し、国を統治する者たちの取るべき思想の選択、未来の予測、抽出された課題から「今、何をなすべきか」を問うテーマ。しかもその表現においては、アジアの伝統芸術の創造形式が取り込まれ、かなり強烈なエネルギーの衝撃波だった。二つの思いで、私は感動した。今日の世界にとっての大きなテーマに真向う勝負している思想に。二つ目は、このような大きなテーマには、これからもアジアの伝統芸術の創造形式が有効なこと。
 さすがアリアーヌ・ムヌーシュキンだと…劇団主宰者で演出家、西欧人の彼女に、以上のことを気付かされ頭が下がった。いづれもが、わが今日の日本演劇には決定的に欠けている点である。

 私どもの劇場も、自主企画公演やフェスティバルで、たとえばチェーホフの創造思想に、ダリオ・フォーの、ヴィトカッツイの、ブレヒトの…それらに学ぼうとアプローチしつつ、もう一方で、われわれの身体をとおしてのアジア的創造精神を獲得する試みもやっている。郡司正勝先生との共同創作や、その意図を汲む桃山晴衣の『俳優修業』や、シアターΧインターナショナル・ダンス+シアター フェスティバルでの各国各人のプリミティブな交感交流など。
 だが、日本の現状をみるに、相変わらずチェーホフもブレヒトも、もはや世界ブランド物として、スター演出家やお役者サンたちでのヤッツケ製造ばかり。彼らの煮えたぎる思いを取り込み傾注し、今日の日本の現実を見てみようなどとは、夢おもわない。

 ま、私はこんな現場からのもろもろを吐露いたすことで、現実の危機を「危機」として認識できる免疫機能を鋭敏・研磨し、免疫力を高めねばという焦りの中にいる者です。
 なお、私はアジアの伝統芸術精神とは窮極、人形や仮面的なるものの世界に昇華することではないのかとも気付きだしました。どなたか、お教えくださいますればありがたい。

第5回シアターΧ国際舞台芸術祭[IDTF]
メインテーマ:「現実を抱きしめて」
2002年9月16〜17日
『People Theater』
演出・総指揮:エレン・スチュアート(ニューヨーク・ラママ劇場創立者で芸術監督)

2002年「第5回シアターX国際舞台芸術祭」のプログラムより抜粋
シアターΧ創立10周年と国際舞台芸術祭の発足
日下四郎(舞踊評論)

「第5回シアターΧ国際舞台芸術祭」2002年9月3日〜20日

 シアターΧがその活動を開始してから、この秋でちょうど10年になる。思えば1992年の秋、ポーランド出の異端の芸術家ヴィトカッツイを主題に、突如川向こうの両国に大きな花火が打ち上げられた。その時の衝撃は、いまもあのペルソナ(仮面)のポスターとミックスされて私の脳裏を離れない。当時のプログラム・シートの第一頁にはマニフェストを兼ねた一文に、「人生の楽な流れに乗ることを生涯拒みつづけた彼の芸術家魂に、シアターΧがびっくりしてしまった結果」、世に知られざる、この海外の異端作家を取り上げた云々という説明がある。
 果たしてこの姿勢は、その後営々と積み重ねられたシアターΧの、ヴァラエティに富むレパートリーの背後に、一筋のライナーとして強い光を放ち続けている。そしてそれはそのままプロデューサー上田美佐子さんの反骨に徹した根強い個性の産物でもあったのだ。
 いまシアターΧの過去の仕事を大別すると、およそ次の4つの領域にわたっている。ひとつはシアターΧ名作劇場などに見られる〈自主企画公演〉、賛同と援助を旨とした外部グループとの〈提携公演〉、朗読塾や演劇セミナーなど多種にわたる〈ワークショップ〉の催し、さらに1994年から2年置きに実施されている〈インターナショナル・ダンスフェスティバル〉と以上4種のカテゴリーに分類されるといっていい。
 その〈インターナショナル・ダンスフェスティバル〉(IDF)であるが、これは当初演劇のための一種の付則公演のような形で企画されていたが、回を重ねるうちにやがてダンスの特性と演劇の中枢が微妙に絡み合い、むしろ両者があい補い合うことで舞台芸術のあるべき魅力を発揮し合えるものだとして、今回からは〈インターナショナル・ダンス+シアターフェスティバル〉(IDTF)として拡大発足することになった。これまでダンス界を主軸に置いて働いてきた私などにとっては、正にわが意を得たりの感が強い。
 皮肉なことに日本経済はシアターΧがスタートした92年以後、年々失速の一路をたどりはじめた。そのころはまだ景気はよかった。唄え騒げの華美がそのまま文化として通用したのである。しかし世紀が変わり、ハコばかりがとりのこされた昨今の文化風景は、その報いの姿かと思えて実にわびしい。いまだにこの国の文化発想と心の貧しさに向かって、今こそしぶとい気骨の魂が大いなる叫び声を立てる必要がある。Χはローマ字の10、謎のシンボルとしての不可知のΧ、考えようによっては10年経って今年こそ、シアターΧがその謎の力を発揮する真の出番ではあるまいか。

2002年9月10・11日
第5回シアターΧ国際舞台芸術祭
9月14・15日
京都府立府民ホール・アルティ
『野ねずみエイモス』
演出:ルティ・カネル
出演:タリ・カルク、シルリ・ガル
ナレーション:范文雀

(社)現代舞踊協会「DANCE EXPRESS 芸術舞踊」NO.308(2008年4月号)より抜粋
小劇場時代の仕掛け人 vol.2
シアターΧ(カイ)プロデューサー/(社)現代舞踊協会理事 上田美佐子

シアターΧは、民間経営であるが単なる貸ホールの形をとってはいない。前年10月末日までに提出された企画書を協議し、提携する公演を決定する。従って年間の公演はシアターXの自主企画および提携公演とである。管理会社からは「地域に密着した一般の人に受けるようなものの企画を」といわれているそうであるが、上田氏は「例えばミラノのスカラ座をミラノの人たちは誇りに思ってはいるけれども、スカラ座が地域の人に受けるのための特別な何かをするということはありません。今、なすべき芸術的課題を真摯に追求しているのみ」と言って切り抜けている。X(カイ)がめざしている作品も、今になすべき新しい思想、形式の懸命な模索である。先駆的な演劇が主軸であるが、近年はモダンダンスの上演も多く見られるようになった。大相撲発生の地、両国にあって、舞台の広さは12m×10m(最大時)、客席数は200席から400席、使用料は区営なみの低料金に抑えている。

───上田美佐子氏に聞く
 2月のシアターΧの公演「泥棒論語’08」(花田清輝:作)は、演劇・オペラ・ダンス・音楽などジャンルを超えた難度の高いバラエティ様式への挑戦で、細胞がイキイキと生き返ったもののように感じました。Χは常に新しい思想・形式を現実と対峙する問題意識でまさぐり、創出していきたいと思っています。身体を伴った知性と感性とに鍛えられたエネルギーが出ていかなければとも。ダンスは演劇に、演劇はダンスに胸を借りて、例えばイスラエルに優れた芸術家がいたらその人を招き、オペラ・能・狂言の人ともジャンルを超え共通の目的に向かって、それぞれが葛藤し合いながら作品を創り上げていく、そうして初めて互の足腰も、より強まるものなのでしょう。
 以前、私は日本の演劇が好きではありませんでした。ポーランドの演出家アンジェイ・ワイダと坂東玉三郎との『ナスターシャ』を企画した関係で、たびたびポーランドへ行っているうちに演劇が好きになれました。ポーランド演劇はレベルも高く盛んでもありますが、劇場や街なかに小さな貼り紙をしているだけで日本のように大量のチラシ類をバラまくことはない。それでも3ヵ月前にはチケットが売切れてしまうのです。ポーランドの人々は「自分が今をどう生きたらいいのかを考えたいから」と、まさしく考えるためにこそ劇場へ行くのだと…いうのを私は普通のお客さんに教えられました。
 かつてセゾン劇場のこけら落とし公演で、ピーター・ブルック演出の作品が上演されましたが入場料を1万円にしたら、彼は怒って「私の演劇は1万円もの高価な額を出せる人に観せるものではありません」といったそうです。7年ほど以前にベルリンの劇場を訪問した際、演劇への公的助成金がかなり小さい劇場でさえ年間4億円とか5億円をもらっていると教えてもらったことがありましたが、だからヨーロッパではチケット代は安くしてもやっていける。セゾン側では、仕方がないから安価なジーンズ席を20人分だけ作り、日本の事情を話して了解を取ったとのことでした。「日本は経済大国、文化小国ですものね」とは、フランス大使館の文化担当官がいつも私に挨拶がわりに言ってくれる言葉です(笑)。

 ダンスへの提言〜客との共犯関係をつくれ

日本のダンスも面白いはずですが、演劇同様一般の人が観に行く習慣を持っていないのですね。生の身体が真近かで動くのを見ることはワクワクするような、ヒリヒリするような感得を直截にしますよね。しかし、意図的ではなく会場が広すぎると、そのスリルは減じたりも。それで私がいつも思うのは、ショパンのことです。彼が新作を発表する時の客は20人ほどでした。ひとり一人との真剣勝負でしたから。ショパンの挑発に客のほうも、また、それを拒むエネルギーと寛容する慈悲力とで濃密に沸き返えすという  芸術創造最前線における修羅場。この羨ましい“共犯関係”に比べると近頃の演劇やダンスの多くは客に受けることだけを、損得のことばかりを考えていますよね。今、安易に受けているようなものは死んでもやらない、そういう考え方とセンスをもっている人の企画をΧは優先的に取り上げるようにしているつもりです。客とは馴れあわずいわば共犯関係をつくるようなものだと思っています。
 1986年、日本ではまだ無名だったヤン・ファーブルをパルコ劇場をお借りして公演し、その後1992年シアターXのオープン時にも彼の公演をしました。デュシャンの『大ガラス』原作『彼女はかつて、彼女は今、さえも』を、客席60席でやりたいという彼の“わがまま”を受け入れてやったのですが、上演45分間中の緊張感は「死ぬかと思った!」と客がもらすほど凄いものでした。美しい鋭い挑発の舞台、これぞ宝物といえると感じました。


───インタビューを終えて
 上田氏は小柄な身体でひっそりと座り小声でボソボソと話す。
 秋田雨雀、土方与志で有名な舞台芸術学院の出身と聞くが、およそ外見はそんな雰囲気ではない。卒業後は芸術関係の出版や雑誌に携わっていたが、その傍らアンジェイ・ワイダと坂東玉三郎の「ナスターシャ」を企画し、注目を浴びた。そのため、3年間かよったポーランドで、あらためて演劇に魅せられ1992年、東京・両国に新設したシアターΧのプロデューサーになった。「劇場プロデューサ-という仕事は、劇場と心中する覚悟でやらなければなりません」と言い切る。「ヨーロッパでは、芸術家とは自分たちに代わって魂のあるべき姿というものを生涯かけて追求してくれる人なのだという、尊敬の念が持たれているのですね」という。上田氏の前では、わが身を恥じるばかりである。
 Χで上演される公演は毎回客席で観ていて、終演後、客を送り出すところまで責任をもって勤めている。夫君と息子さんの3人家族で高尾に住んでいるので通勤には2時間ほど、睡眠時間は3時間と聞く。気迫のこもった仕事ぶりには驚嘆するばかりである。
(安田)

1992年11月23日〜25日
シアターΧオープニング特別企画
『彼女はかつて、彼女は今、さえも』
脚本・演出:ヤン・ファーブル
出演:エルス・デセウケリェル

2008年 劇場開場からの軌跡を伝える記事より抜粋
芸術家は首が飛んでも魂を守りぬく
今井 芽(ゆうど主宰)

「Argus−eye」2008年10月号

明日をどう生きるか?を考えるための演劇

──シアターΧ(カイ)劇場プロデューサー上田美佐子さん

─── 上田美佐子さんは、ポーランドの演出家であるアンジェイ・ワイダさんと、歌舞伎の女形坂東玉三郎さんの『ナスターシャ』の公演を実現すべく、1986〜1989年の3年間にポーランドに20回以上通った。このことが、演劇にのめり込むきっかけとなった。
なぜ、そんなにポーランドの演劇に魅かれたのか?

 ポーランドは、200年間、ロシア、ドイツ、オーストリアに占領された。占領時は、ポーランド語を使うことも許されず、お芝居と教会だけでポーランド語を使えるという状況にあった。
 そうした彼らにとって、芝居とは、ただの娯楽ではなかった。人生をどう生きるか? を、俳優がその存在を持って示唆してくれるものであり、芸術家である彼らが、人より10年〜100年も早く、その方向性を指し示してくれるものであった。
 ワルシャワの劇場で、演劇をなぜ観るのかについて質問したところ、「明日をどう生きたらよいのかを考えるために観るのです」とごく普通のご婦人が答えたと言う。
 そのことは、ポーランドの演劇の何たるかを語っている。

 日本の演劇がかつてはそうであったかもしれない時代──世阿弥の時代や初代団十郎の時代・・・役者がまだ、世間の中で、差別されていたり、存在を認められず、お白州で裁かれる際も「一匹、二匹と数えられ、犬畜生」と言われていた時代の切実な思いと通じるものだ(世阿弥は、将軍の稚児としてもてはやされたが、後に、極めて低い身分に貶められ、自らを鵺(ぬえ)になぞらえ名作を残している。

─── みずみずしい魂で、深く掘り下げる

 俳優というものは、全存在をかけて、自分の深いところに入り、魂を揺るがせながら、色んな角度から自分を掘り下げ、それを観た観客が一緒になって、魂を打ち震わせる。
 ポーランドの演劇人は今もそんなところにいる。
 もし神様が遣わした才能を持って、みずみずしい魂で事象をとらえ、それを深く掘り下げることが出来ないのなら、芸術家などは返上して、ふつうの生活にもどればいい。
 クリエイターというのは、人より感覚が鋭敏で、柔らかい魂で、物事を感じられ、それを自分の中で昇華して、高い次元で表出できる人だと思う。
 ポーランドの名優は、何でか? ということにいちいちひっかかっている。不器用なほどに。そしてそれを表現するのにも多くの手段を持つ。神経や血脈を。

 ポーランドのタディウシュ・カントールなどは、演劇言語というものをどうにか作ろうとした人。体と言葉。音楽、空気などすべてを複合し、ひとつの表現にまで高めていく。今生きている生の肉体が放つエネルギー、思いなども含めて。それは、文学を立ち上げて演劇にするというような安易なものではない。映画のように過去と未来を編集することも出来ない。演劇は、一番、時代を生きるもの。そしてその場で消えて無くなるもの。
 カントールの演劇は、言葉はあるが、言葉じゃないから、充分感じられる。通訳しない方がいい。上田さんがカントールを観て「体が震えて涙がとまらない感動のまま、不思議と、とても素直に『今日の世界について』『人生の今について』と対峙、深く思いをめぐらしている自分を発見した」と書いているが、たぶんそれは、潜在意識に深く届いたのだ。

─── 日本の俳優は、何かに甘んじてしまった…

 シアターΧのオープニングの時、ポーランドの前衛芸術家のフェスティバルを『ヴィトカッツイのびっくり箱』というタイトルで3ヵ月間やった。これは、ポーランドの俳優たちに、体で表現するとは何たるかを、日本の俳優たちに見せつけてもらいたかったからだ。何が足りないのか? 言葉も風土も違うから、指導してもらうのではない。ただあなたたちの胸を借りて、「創る側が、本当の意味で磨いていないといけない」、「死ぬまで修業しないと、俳優でなくなる」と、ポーランドの俳優たちは思っていることなどを感得させてもらいたいと思って呼んだのだった。

 芸術家は、芝居のために芝居をやるようになったり、お金や名声などに振り回されるようになったら終わりだ。モーツアルトもトルストイも、ゴッホもみすぼらしく死んでいった。
 これは、そうなりたくない芸術家の勘だろうか? 芸術家は首が飛んでも魂を守りぬくものである。

 かつて『ナスターシャ』の芝居の時に、短い稽古期間の中で、上田さんが「雰囲気やタイプやパターンを安易に演じて格好にするのではなく、魂の深淵を探究したドストエフスキーの悩みに思い至れるものなのか、どうか。役者が自ら役の人間と向き合って、舞台で生きることを会得するよう」と演出家のアンジェイ・ワイダ氏に強く主張した。彼は、帰国する時に、「だが(彼らの)根っこまでは引き抜けなかったよ」と言い残したという。

 上田さんは、これからは、一人一人が自律し、自分でやりたいことをやりぬくようになるといいと言う。何十億の人が一斉には無理だけれど、クリエイティブな人たちが、クリエイティブな人生を送れるか? その人自身が、自分の課題を持って生きれるか? 人は誰も悩みを持っているが、悩みを持っている人が、自分で考えて自分で実現する人になれれば…。人からどう思われてもいいから。

演劇とはいったい何だろう?
人生とはいったい何だろう?
深くなればなるほど、人生は面白くなる。多面的になる。
深くなればなるほど、次元を超えられる。
闇が深ければ、光もまばゆい。

1992年9月15日〜12月25日
シアターΧオープニング特別企画
「ヴィトカッツイのびっくり箱」
ヴィトカッツイの《鏡の中の多重自画像》
(ポーランド生 1884年〜1939年)

1993年9月25・26日
四つの四重奏 『カルテット』
作:ハイナー・ミュラー ロシア版

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