シアターΧ『音楽詩劇研究所』

2015年3月〜

音楽 詩 劇を「演じる」

内容

音楽家、作曲家河崎純を中心に、音、ことば、からだの関係の網の目をほどき、音楽、歌の資源の水脈を探知し、それをもとに研究会で語り合い、稽古、実験、試演を重ねながら音楽詩劇を作成、上演する(ドラマトゥルク、アドヴァイザーとして文芸批評家、立教大学文学部文芸思想学科特任教授青木純一氏)。 この研究所は音楽の身振り、言葉の身振りを時間をかけて研究する場。 研究会や創作は、一方的に経験や疑問や想いや知識を語り、作品を実現する場ではなく、あくまで参加される方々の、問題意識や創作の喜びと向き合い、響き合いながらすすめたいと思っています。 そこから表現の方法を考え、実験をする場でもあるのです。 私たちは、発話から歌を創造するのではなく、沈黙や発話行為の前にまず歌を想定してみる。 それは、あえて沈黙に向かうのではなく、歌の不可能性とのせめぎあいから出発する言語活動、コミュニケーションの反転的な「革命」。 反動的オペラへの航路。
たとえば「音楽詩劇」とはこんなイメージ。
木の実が枝から落ちる このか幽けき瞬間の消滅を音楽と呼ぶのなら、私たちはその待ち人。 「おーーい」と呼びかけて返事を待つ。 いつまでも返事がないかもしれない。 よびかける相手はいなかったのかもしれない。 木霊かもしれない、聴こえないかもしれない、聴こえ過ぎるかもしれない。 音。それはいま、歌のように聴こえる言葉になって、わたしたちはそれを歌うカラダになる。 時間と生物と死者の、この猥雑な関係。孤独や虚無から宇宙を恋い焦がれるカラダになって音楽を待っている。

俳優、歌手、舞踊家、演奏家、美術家、作家、詩人、もちろん、それぞれ未経験者も歓迎。関わり方も様々です。短期、単発的なワークショップではありません。

上演

2015年は、シアターΧ「カントル年2015」における上演を予定しています。
6月下旬 ロネン・シャピラ(イスラエル・音楽家)「カントルへの音楽的アプローチ」企画との関連公演。
10月中旬 公演
その他試演的上演の可能性あり

参加費

各回1,000円

日程

2015年タデウシュ・カントル生誕100年記念 2015年10月14日、20日公演のための研究会と創作稽古
8月2日(日)13:00〜21:00
8月8日(土)13:00〜21:00
8月23日(日)17:00
8月27日(木)17:00


音楽詩劇研究所とは

研究会、上演は河崎純が作・構成、演出、作曲した、大学の演習授業やダンサー、朗読のためのワークショップ公演で発表した作品の台本をベースに行います。 研究会では様々な音楽を聴いたり、音楽についての話も多くなります。 作品 あらすじ等はホームページをご参照ください(このまま上演するわけではありません)。 研究会と創作のための稽古には厳密な区別はなく、研究会で創作のための実践を行うこともあり、上演が近くなるとそのような状況はより予想されます。
その題材、テクスト
近松門左衛門「心中天網島」タデウシュ・カントール、ブルーノ・シュルツ パウル・ツェラン アントン・チェーホフ  W・Gゼーバルト ベルトルト・ブレヒト 謡曲 黒塚 オシップ・マンデリシュターム ゲンナジイ・アイギ(チュバシの詩人) 金時鐘 石原吉郎 ドミトリー・ショスタコビッチ(ロシアの作曲家) コミタス・ヴァルタヴェッド(アルメニアの作曲家) オリヴィエ・メシアン(フランスの作曲家) など

河崎純(作曲、コントラバス、構成、演出)

主に舞台作品の音楽監督、構成,委嘱作品の作曲のほか主宰、参加アンサンブル多数。 自作、即興、編曲による無伴奏コントラバスソロなど。 演劇・ダンス・音楽劇を中心にこれまで60本以上の舞台作品の音楽監督、作曲、演奏。 とくに歌の作曲に力を入れている。 また、トルコの振付家との共同作業により身体表現にも取り組む。 近年は演劇、ダンス、パフォーマンスなど舞台作品の構成、演出。
主な舞台音楽作品に
西川千麓「カミュー・クローデル」、ポルトB「ブレヒト演劇祭の約1時間20分」、静岡県舞台芸術センター(SPAC)「大人と子供によるハムレットマシーン」、江戸糸あやつり人形座「マダム・エドワルダ」など。
海外での演奏は、ポーランド、アメリカ、台湾、リトアニア、スコットランド、ロシア,フランス、スイス、ウクライナ、トルコ、エジプト、ハンガリー、ドイツ、リヒテンシュタインで行った。 構成、演出、音楽を担当したロシア人アーティストとの「砂の舞台」モスクワで発表。 国際交流基金日本トルコ現代音楽公演「sound migration」に参加。 2011年よりトルコの振付家アイディン・ティキャルと「db-llbase」プロジェクト(kiki arts project制作 セゾン文化財団 アサヒビール芸術文化財団助成 )で、イスタンブール、東京などで公演。 2014年ドイツドレスデン交響楽団、中央アジア伝統楽器のイスラム叙事詩による新作音楽劇「デデコルクト」にソリストとして招聘され、ベルリンでの共同作業。
http://blog.goo.ne.jp/jk50654396


お問合せ

シアターΧ

音楽 詩 劇を「演じる」 沈黙の手前で





音楽にならずに詩になった言葉がある。詩にならず言葉にもならなかった声が、身体がある。私は多くの舞台作品で音楽、歌をつくってきました。しかし、その歌がさまざまな状況で歌い継がれてゆことに喜びながら、反面、歌の不可能性を根底におき、その歌、音楽は永遠の沈黙の直前に歌われる「最後の歌」、奏でられる「最後の音楽」を想像してつくってきました。例えば前者はベルトルト・ブレヒトの言葉に作曲するときなど、後者はパウル・ツェランの詩に歌をつけるとき。ツェランの言葉はどれも「歌」とは遠い言葉、「歌えない」言葉にあえてかろうじて歌える旋律をつけること。
言葉を虚ろに発し、発され、続けている現代にあって、そのことに多くの人々が自覚的でありながら、沈黙を選ぶことは出来ない。沈黙は死を意味するもの、と捉えるからだろうか。私たちは死の回避、生の存続のために無為な言葉を発し続けているのだろうか?詩人田村隆一のに「言葉なんておぼえるんじゃなかった」という有名な詩句がある。たとえば「詩」の言葉とは現代において少なからず、言語の消滅の臨界点で歌われるものかもしれない。その歌い方、演じ方は様々だが。かつてのベケットが想起される。すべてが沈黙へと向かう。向こうから聴こえるざわめき。語り続け、歌い続けるのは向こう側からの声。私たちが演ずべきはやはり死者あるいは亡霊?夢幻能。W・Gゼーバルトの「アウステルリッツ」にみる死者の無言歌のメランコリー。それを声にすることは、死を演じることであろうか、あるいは死についての学習であろうか。カントールも想起される。そしてツェランの孤絶の語に、複数の歌や声が響いているとしたらそれは死者の声に他ならない。死劇か詩劇か。しかし永遠の沈黙を前にした最後の歌のようなイメージは捨てることが出来ませんでした。
「音楽劇」というと、いまではオペラやミュージカルなどがまず思い浮かぶだろうか。オペラとは歌劇、世界中の数多ある音楽劇の中でももっとも洗練されたヨーロッパの音楽形式であり、教会の典礼劇、つまり聖書をベースにした宗教劇、宗教音楽、さらに宗教をはなれ「芸術作品」としてオペラという形は完成され、娯楽性をつよめオペレッタやミュージカルへと発展して行く。そこで歌手は役を「演じる」。つまり「演劇」である。やがて演じられる対象は神々やその神託から独立した個人のドラマへと変わり、20世紀の歌や音楽は、個人の表現、表明として、発信、受容されるようになる。民話や神話ではなく、個人の感覚や喜怒哀楽の共有、思想、社会参加への態度表明、それぞれの共感の集合、が音楽という「空間」を成立させてきた。そこでは「演じる」という行為はきわめて相反的な行為になる。とくに20世紀以降音楽というものは、劇的なものを排除することで、人々の間で共有されていたことを意味する。古来、芸能や宗教祭事では普通のことであった「演じる」というファクターを排除することで、音楽は「音楽」として独立性を獲得した。「演じる」という領域はドラマや消費にならされ、あるいは「演じない」という幻想の中に回収された。いま、音楽から「音楽」を解き放ち、音楽や歌の資源の水脈を探りあてつつ、私たちは、極私的ドキュメンタリーとドラマ(劇)とのはざまで、現在演ずるべきいかなる「役(割)」を探し、創出しうるだろうか。
河崎純